スウェーデンに家族と共に移住したエンジニアのブログ

娘の教育と妻のキャリアの為にスウェーデンへ移住。

成功体験と自己肯定感

私は自己肯定感が強い方だと思う。高い?強い?いずれにせよ自己を肯定しまくっている。言い方を変えれば「俺が正しい」といつも思っていて、絶対の自信を持っているのがデフォルトだ。

 

そしてこの文章を書いている今、まさに自信に満ちている。この記事を読んで「俺すげーって言いたいだけじゃん」という嫌悪感を抱く人もいれば「なるほど」とヒントにする人もいるだろう。

 

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日本維新の会の政調会長音喜多議員を訪問しに議員会館に行って、音喜多さんのYouTubeに出ちゃうんだから自分でもすごいと思う。

 

読み手の事など考えていないので文字数はとんでもなく多い。今日車を運転しながらふと思い浮かんだ事を、子供達が寝た後にまた思い出したので書き留めておこうと思った。メディアに寄稿するわけでもないので文字数制限も無いし何の制約も無し。書きたい事を書く。ただそれだけだ。

 

自分が正しいと思い込む事は、別に日常生活を生きづらくするということではない。普段の生活での他人とのやりとりにおいて毎度「俺が正しいんじゃ!」と一方的に押し付けるようなことはしない。特に仕事においてはそれは絶対にやってはいけないこと。スウェーデンでは特にこういう奴は御法度なのである。

 

ではこの「俺が正しい」はいつ発動されるのか、それは何か大きな決断をする時である。例えば海外へ移住すると決めた時、転職をする時、などなど人生の中でハイライトとなるような決断をする時は必ず自信が伴ってきたことに気付いた。何故こうなったのかを考えてみたところ、17歳と22歳の時の成功体験が現在の人格形成につながっていると、先ほど車を乗りながら結論付けた。

 

<一度目の成功体験>

高校一年生だった16歳の春休みに生まれて初めてアルバイトをした。ドミノピザ北池袋店であった。オープニングスタッフの一員として研修から始まった。何やら池袋の西側の繁華街はドル箱のようで、ここをテリトリーとする北池袋店は全国でもトップクラスの売上げが見込めたそうだ。経営陣は肝入りの店長を任命したようだ。

 

店長は名前は覚えていないが元プロレスラー。挨拶の声がデカすぎて、冗談一つ言わない真面目な人で、気合いと根性丸出し。当時の私は社会人と接した事が無く、大人とはこういうものかと面食らったことを覚えている。

 

その店長の好きな言葉が「ハッスル」であった。とある日、店長にいきなりこう聞かれたのを覚えている。

 

「吉澤さん!いつハッスルするの?」

 

唐突に聞かれた。私は返答に困った。すると店長は

 

 

 

 

「常に!」

 

 

と言い放った。頭おかしーだろと思った。この調子だといつかバックドロップでもやられると思った。初めてのアルバイトだが、なんだかやべーところに来ちまったと直感で分かった。ただ、何故か楽しかった。面倒くさいバイトリーダーがいたものの、最年少の私をフリーターや大学生はかわいがってくれた。なので辞めなかった。ここまでの話は本題とはあまり関係の無い部分なのだが、この不思議な店長の事をどうしても書きたかった。

 

話を戻す。

 

春休み、確か毎日出勤したと思う。数週間で10万円弱稼いだはずだ。そのお金は何の為に稼いだか。それは原付を買う為だ。

 

すぐにバイク屋へ行き、紫色で黄色ヘッドライトでお尻の部分にチョコんと羽が付いたSuper Dio ZXを買った。Live Dio ZXがよかったのだが予算オーバーだった。

 

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これだよ、これこれ。懐かしい!しかし下品なカラーリングだ。

 

しかし、この原付は何故だか45km/hまでしか出ない。おかしい。バイク屋に聞いたら前オーナーが飛ばさないおばちゃんだったからクセが付いて遅いバイクになったと。当時よくそんなことが言われていたけど、本当にそんなことがあるのか。あるとすればキャブと点火系のセッティングが狂っていたということになる。

 

そんな知識は同時の私には無くとにかく16歳の私は純粋で、バイク屋の言う事を信じた。周りの友達からの情報で、とある部品を付け替えれば速くなると聞いた。早速買いに行った。CDIという装置だった。これを車体から元のCDIを外して買ったCDIを付けた。初めての改造だ。60km/h出た。おーヤバイ、楽しいぞコレは。法定速度は30km/hなわけだがその辺りは時効としよう。

 

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CDIとはこんなヤツ。うわー、懐かしい…

 

しかし、その原付を3週間で手放した。友達が乗っていたNS-1と交換することになったからだ。このバイクは50ccでこれも原付の部類に入る。というか原付とはそもそも原動機付自転車の略なので、車輪が二つあってエンジンが付いていたらそれはみんな原付なのだが。まあとにかく原付の免許でNS-1に乗れるのだ。スクーターのSuper Dio ZXと何が違うのか、それは手足をガチャガチャと動かさないとNS-1は走らないのだ。

 

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NS-1。色もこれだった。超懐かしい…

 

そしてその操作方法は大型バイクと全く同じなのだ。私はどうしてもこのガチャガチャをやりたかった。最初はうまくいかなかったが何度もやる内にできるようになった。

 

しばらくこのバイクに乗った。2ストロークのキーン!という音がたまらなかった。50ccのくせに直径100mm程の極太マフラーを装着していたので抜けが良過ぎて高回転までぶん回さないとろくに走らなかった。メンテナンスは金が無いので自分でやる以外選択肢は無かった。高校2年生になったばかりの少年は、授業中にひたすらバイク雑誌を読み、エンジンの構造やメンテナンス方法をひたすら学んだ。

 

高校一年時の成績は学年を通して上の下ぐらいであったが、この頃から通知表に2が並び始めた。母親はがっかりしていたかもしれない。小中学校を通して2など一度も取ったことがなかった。もはや全く気にならなかった。だがバイクの事が気になって仕方がなかった。

 

学校が終わるとピザ屋のアルバイト。ドミノピザを辞め、友達に誘われて板橋の常盤台というところにあったピザステーションというマイナーなチェーンでアルバイトを始めた。ちなみにここで出会った隣の中学の先輩とは24年経った今でも付き合いがある。ここにはろくでもない奴が沢山いた。だがどの人も人間的に最高に面白かった。高校での成績などますますどうでもよくなった。

 

週末になると23時に店を閉め、みんなで首都高の辰巳パーキングや大黒埠頭に出かけた。当時流行っていたVIPカーやヤン車、族車、走り屋のスポーツカーを舐めるように観察した。オーナーに話しかけて細かいスペックを聞いたりもした。排気音を聴かせてもらったりした。

 

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大黒埠頭パーキング。やべーとこ。でも超楽しいとこ。

 

この頃から付き合う友達はみんなチンピラ、ヤンキー、ギャル男、落ちこぼれ、アウトローだった。原付をきっかけに広がった交友関係はこんなところに落ち着いた。だが後悔は全くしていない。それは後に自分なりの偉大なストーリーへとつながったからだ。

 

当時、中学の同級生とよく溜まっていたところに隣の中学の同級生も時々来たのだが、その内の一人がZephyr400(以下ゼファー)に乗っていた。いわゆるデカいバイクだ。当時はこういうデカいバイクの事を単車と呼んだ。そう、ヤンキーは必ず単車という単語を使うのだ。

 

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ゼファー!今見てもかっこいい。大学生の頃に中古車を購入してよく奥多摩に走りに行った。高校生の頃に初めて乗ったのは赤だった。正しくはワインレッド。

 

みんなが無免許なのにゼファー乗り回しているのを見て、自分も乗ってみたいと聞いてみた。そんなに仲良くないのに彼は快くOKを出してくれた。

 

あの時の瞬間を未だに覚えている。でかい。そしてメーターが大きく、かっこいい。何より高級感がある。エンジンがでかい。音が図太い。そして重たい。こんなに重たいんかよってぐらい重たい。

 

た、単車すげー。

 

NS-1と同じ操作方法だ。深呼吸をして恐る恐る走らせた。感動した。こんなものが世の中にあるのかと。そしてこれを隣の中学のアイツは所有しているのかと。そしてそれは30万円ほどしたそうだ。高い…当時から私は携帯が支払いが遅れてよく止まるヤツで、貯金なんて出来ないやつだった。

 

とにかく色んな感情が頭の中を駆け巡った。乗ったのは僅か数十メートルだが、まさに身体中の血が騒いだ。

 

金は無いが、当然自分もこんなバイクが欲しいとなった。何故かここで4輪にあまり興味がいかなかったのは未だに自分でも説明が付かない。とにかく二輪が好きだったのだ。17歳の少年にとって400ccはデカいバイクだ。最低でも250ccに乗りたかった。今となっては最低1000ccはないとデカくはないのだが。

 

しかしバイクを買う金も無いし、そもそも免許すらない。とりあえず親に聞いてみた。答えは即答でNo。まあ予想はできていた。しかし当時から屁理屈を捏ねる才能はあったようで、予め理論武装していた私は当時ホンダに勤めていた父親にこう言った。

 

「お父さんはホンダに勤めていて、ホンダと言ったら二輪事業は世界一なんでしょ?自分が勤めている会社の製品を息子にすらお勧めできないってのはどういうこと?そんなの矛盾してるよ。むしろ乗れって勧めてくるべきだ。」

 

10代の頃からバイクに乗っていた父親は困った様子だった。父親はこう返してきた。

 

「じゃあ免許を自分で取ったらデカいバイク買ってやるよ。中古だけどな。あんま高いのはダメだぞ。」

 

一歩前進だ。しかし免許を取るにしても金が無い。免許を取るには15万円だか20万円かかる。周りのみんなはみんなそう言った。しかしアルバイトでこの金額が貯まるとは全く想像できなかった。

 

当時はGoogleなどなかったので周りの人達の情報が全てだった。どうしたものか。色んな人に聞いて回った結果、一発試験というものがある事を知った。一発試験とは試験場で実技と学科の試験をクリアすることだ。教習所はこの実技の部分を金を払って教えてもらい、教習所の卒業検定をクリアすれば試験場での実技試験が免除されるという仕組みなのだ。

 

しかし、周りのみんなは全員が無理だと言った。全員だ。友達、先輩、その他全員。笑われたこともあった。しかしそれでも諦めたくはなかった。今のように数少ない成功体験をGoogleで見つけることが不可能だった当時、諦めないという選択をするのは奇跡に近かったと思う。私はとにかくわがままな性格なのである。

 

とりあえず本屋に行った。その手の本が何冊かあった。最も分かりやすそうな物を購入し、学校の授業中に熟読した。ある程度何をすれば試験に通過するのかはイメージが湧いた。また、一回の試験で3700円ということも分かった。もちろん当時の値段だ。今はもっと高くなってるはずだ。

 

これまでテスト勉強や受験勉強をこなしてきて、高校受験直前の模試で偏差値が70を超えたりしたので自分は馬鹿では無いと思い込んでいたので、本を読み解くのは簡単なことであった。しかし当時は動画など一切無いので本の中の写真が頼りだった。

 

同じクラスに、何故だか私がまさに欲しいバイクXJR400を持っているヤツがいた。家もすごく近い。彼は教習所に通い免許を取り、そのバイクを買ったそうだ。財源は未だに知らない。高校2年当時の私は、今で言う陽キャのオラオラ系だった。日焼けサロンに通い肌は真っ黒、当時流行っていた金髪だか白髪なので見た目は異様だった。彼から半ば無理矢理バイクを借り、私有地でひたすら乗り込んだ(ということにしておこう)。

 

本に書いてある内容を一通りやってみた。NS-1と400ccは重みが違うが少しずつ形になっていった。ここで実際の試験を見に行くことにした。学校をサボり試験場へ見に行った。鮫洲だ。品川の先にあるあの鮫洲だ。試験の様子を金網越しに眺めた。ガチガチに緊張している人とそうで無い人がいる事に気付いた。性格の問題だろうとその時は軽く見ていた。

 

とりあえず受けてみよう。

 

平日にしか試験は無いので当然学校をサボり試験場へ行った。3700円を払い実技試験を受けた。まずは転倒している重たい車両を起こすところから。これはやったことない。大丈夫か…一番手にならないことを祈った。幸いなことに自分の前に何人かチャレンジした。全員成功した。自分の番。本にあれこれ書いてあったが全部吹っ飛んだ。火事場のクソ力でバイクを起こした。起こした後は星が出てくるぐらいクラクラした。

 

バイクを起こさないとその場で帰宅なのでホッとした。他に5〜6人一緒に受けている人がいて、中には小柄な女性もいかず、失敗する訳にはいかないのでホッとした。

 

さて、いよいよ自分が乗る番。乗車をし、エンジンをかけるまで、やたらと細かい手順があり、過剰な動作を伴いながら安全確認をしないといけない。減点方式で、一定の点数を割るとその時点で試験は中止となる。まずは完走することが目標。

 

とりあえず乗った。物理的に乗れた。えーと確かミラーを調整するフリをして〜…あー訳がわからんがとりあえずエンジンかけよう!ブルルン!きっとこの時点で手順が滅茶苦茶なのでいくらか減点されてるんだろう。さて、発進。ガチガチに緊張しているのでフラフラと弱々しく走った。最初の交差点を曲がった時に不用意に足を付いた時、そこで終了となった。試験開始から僅か1分ほどの出来事だった。

 

これはヤバいぞ。

 

絶対に無理だとみんなが言っていた事が分かった気がする。ただ私以外に誰も試験を受けたことすらないのにみんな勝手なことを言っている。彼らの声を忘れようと頑張った。肩を落とし試験場を後にしようと思った時、おそらく大学生ぐらいのお兄さんに声をかけられた。何やらその人は非公認の教習所に通ったそうだ。つまり教習所での卒業検定が無い代わりに試験場で実技の試験を受けるということ。そしてその分値段は安いそうだ。なるほど、先日外から眺めて緊張をしていないように見えた人達はこのパターンの人達なのか。また一つ学んだ。しかしそれでも非公認の教習所の値段は高かった。

 

とりあえず一度家に戻り、作戦を練ることにした。当時中良かった友達からいい情報をもらえた。何やら土日の試験場は有料で自由に走れるらしい。早速調べたら府中の試験場で実際にできることが分かった。そこで例のクラスメイトにまたバイクを借り、仲良しの友達は免許を持っていたので彼にバイクを乗ってもらい府中まで行った。

 

そこで散々練習した。試験場で実際に試験の模様を目に焼き付けたのでひたすら再現をした。するとまあまあできることがわかった。何なら合格してもおかしくないレベルだ。免許を持っている友達もビックリしていた。緊張さえしなければ可能性は十分にあると踏んだ。

 

2回目の試験を受けに行った。前回よりかは緊張はしなかったが、まだまだ実力の半分も出しきれず。確か中盤に差し掛かったところで終了となった。試験場から帰る際に次回の試験の予約をした。この時はいつか合格するという確信が芽生えていた。帰り際に他の受験者からの情報収集も怠らなかった。

 

そして三度目。ついに完走した。合格しててもおかしくはない。試験官が無表情で近付いてきた。

 

どっちだ?

 

試験官は「ん〜、惜しい!」と一言。「次は受かるぞ!頑張れ!」と。

まあ心当たりはいくつかあったので納得できた。すぐさま次回の予約をした。今度は何人かから話しかけられた。今まではあれこれ聞く側だったが、もうすぐ受かりそうな人は逆の立場になる。試験に落ちたのは残念だがこれは嬉しい体験であった。

 

そして4回目の試験。もはや緊張はゼロ。実力もほぼ出せた。何なく完走し、試験官が来るのを待った。前回とは違う人だが彼はニコニコしていた。

 

「おめでとう」

 

この時17歳の私はそれまで生きてきた中で最高に嬉しかった。高校の志望校に受かった事なんて比較にならないレベルの喜びだ。

 

持っていたPHSだか携帯電話が止まっていたからだったのか、公衆電話でいろんな人に電話をしたのを覚えている。近くに私みたいなヤツが他に何人かいた。同じ喜びを味わっていた。学科試験は最初に終わっていたので、これで免許ゲット!と思ったら何と、教習所に2〜3時間だけ実技の講習に通わないといけないらしい。これが確か1〜2万円したと記憶している。練馬区のどこかの教習所を予約した。

 

ここで実技と応急救護の練習を人形相手に行った。その後試験場へ行きやっと免許を手にした。免許をしばらく眺めた。あと、この時鮫洲の試験場で榎本夏菜子とすれ違ったのを覚えている。大魔神と結婚した。かわいいんだが痩せ過ぎだ。

 

とにかく嬉しかった。

現在41歳。今振り返ってもこの出来事に勝る嬉しい出来事は今のところない。

 

そしてとんでもないレベルの自信が湧いてきた。周りの全員が無理だと言っていたことを覆したからだ。友達はみんなすげーすげーと言ってくれた。

 

家で父親の帰宅を待ち、免許証を誇らしげに見せつけた。父親は驚いていた。一発試験に挑んでいた事は伝えていなかったので一連の努力の話をした。約束通りXJR400を買いに行くことになった。当時父親が乗っていたBMWのどデカいバイクの後ろに乗せてもらい、目当てのバイクがあるバイク屋まで行った。小雨が降っていた。ついに、このデカいバイクが自分のものになる。父親は再三に渡り三日坊主になるなと念を押してきた。すぐに飽きることを恐れていたようだ。

 

そんな心配をよそに、毎日毎日、いや、昼夜問わずひたすら乗り回した。アルバイトをし、少しずつ改造をしていった。

 

暴走族まがいな事もよくやった。すぐにマフラーが外れる用に改造してある。とんでもない音量だ。特攻服を着てこれに乗ってたこともある。

 

金が無いので自分でメンテナンスをした。どうしてもやり方が分からない時は近くのバイク屋に教えてもらいに行った。何度も通っている内にこっそり無料で手伝ってくれるようになった。毎回無料でやってもらっていたら、少しでもいいから気持ちを示せ!と怒られた。次回からマクドナルドを持参するようになった。あのバイク屋さんの人達は今頃元気にしているだろうか。社会勉強をさせてくれた場所でもあった。

 

XJRに乗り始めたのは確か17歳の後半、高校2年の終わり頃だったか。その頃からついに学校に行かなくなった。偏差値70超えは台無しとなった。何となく将来はバイク関係の仕事に就きたいし、数学が好きだが国語がとにかく苦手だったのでとりあえず理系を選んだが、数学IIIと物理IIBが 1だった。必修ではないとはいえこれはマズい。

 

学校に行かな過ぎて留年の可能性が出てきた。なるべく行くようにしたが退屈で仕方なかった。夜通し友達と溜まっているので朝寝ないで学校へ行った。当然デカいバイクで。学校から少し離れたところに止めておいた。午前中は眠すぎるので授業中はひたすら寝た。起きると昼休みでみんなご飯を食べていたり、誰もいなくて放課後だったりしたこともある。誰もいないとさすがにビックリする。都立の進学校だったので金髪で肌が真っ黒で午前中はぶっ続けで寝まくってるヤツなど他にいなかった。誰も私に話しかける人はいなかった。

 

授業中、時々起きている時もあったが、その時は机にしまってあるヤングマシンやマスターバイクをひたすら読んだ。当時ヤマハから発売されたYZF-R1に度肝を抜かれた。超かっこいい。担任の先生は、こんなに荒れた子は今までに見た事がないと言っていた。

 

高校3年の終わりの頃、同級生はみんなやれ早慶やらMARCHだのを受けていた。私は母親が勝手に願書を出したとあるFラン大学の経済学部を受けに行った。母親は、もしかしたら息子の気が変わるかもしれないとFランでも何でもいいからバイク中毒から抜け出してほしかったようだ。受験勉強はゼロ。高校もろくに通っていなかったが、さすがFラン大学、高校受験より簡単だった。英語はどう見積もっても満点。数学は高校2年の1学期までは真面目にやっていたので8〜90点は取れた。

 

やがて家に合格の知らせがハガキで届いた。母親は少し嬉しそうだか「行く訳ねーだろ」と一言返した。その頃からバイク便の仕事を始めていた。フリーターである。月に25万円稼げた。18歳で25万円は鳶職かキャバクラのボーイぐらいだった。まさか偏差値70だった少年がフリーターになるとは。

 

しかしバイク便の仕事は過酷だった。いくらバイクが好きとはいえ、待機時間もあるとはいえ、一日に8時間もバイクに乗るのはさすがにしんどかった。しかも都会の渋滞の中をすり抜けるのが主な任務だ。これができるから最速の配達手段としてバイク便は重宝されていた。今もまだあるのかな、バイク便…

 

19歳の秋、同級生は大学一年生か浪人生なら夏期講習が終わった頃だ。いつもの通り池袋で次の仕事の待機をしていた。そこに高校時代の同級生が現れた。何やら女を連れている。

 

「あ、これ俺の彼女」

 

何!?大学に行けばこんなことになるのかと思った。まさか全く女っ気の無かったアイツに彼女ができるとは…これは衝撃だった。当時自分にも彼女はいた。ヤマンバギャルほどではないが派手なヤツだった。

 

その彼女に相談をした。

 

「俺やっぱ大学行くわ」

 

すると彼女は

 

「え〜!マジぃ〜!超気合い入ってんぢゃ〜ん!」

 

とか何とか言っていたか。あの子は今元気にしているのか。

 

しかし夏期講習が終わってからどこまで巻き返せるのか。大学受験初挑戦の身だが、既に浪人生だ。親に頭を下げた。昼間は代ゼミに通い、夜は個別指導の塾で分からないところを徹底的に教えてもらうという、時間を金で買う策を実施した。9月からだったか、バイクに乗るのは控え、勉強しまくった。

 

どこの大学の何学部を受けるのか?やはり機械工学科だ。バイクのエンジニアになることは諦めていなかった。工学部でも理工学部でもいい。早慶は明らかに無理だ。明治や中央も無理だ。日東駒専レベルでも厳しい。その下が現実的となった。

 

英語は12〜4歳をアメリカで過ごしたのでかなりできた。センター試験なら8〜9割取れたのでわやらなくてよかった。数学は高校2年の途中まではそこそこできる。物理は壊滅的だ。三教科で170点ぐらい取れると合格の可能性が出てくる。英語90点、数学60点、物理20点という目標を立てた。

 

夢を見て法政大の工学部、日大の理工に願書を出した。法政大は英語は出来たが数学で明らかにボロボロ。と思ったら試験中に発熱して寝込みながら数学と物理の試験を受けた。ベッドの脇に電気ストーブが置いてあり、状態を半分起こしながら試験を受けられるというもはや野戦病院のような雰囲気だった。私の他に数名そんな人がいたのを覚えている。私は途中で試験を放棄して寝た。

 

日大は割とうまく行った。英語は楽勝。数学もまあまあ半分ぐらいはできただろう。数列なんて実際に数えた。問題用紙の裏側を使いマジで数えた。物理は超暇だった。最初の2問ぐらいを終えたところで、その後はもはや問題の意味さえ分からなかった。

 

他にも芝浦工大も受けたがここも難しかった。あとは青学の法学部。ここは辞書持ち込みOKの英語が選べた。英語なら自信があったので英語だけで受けられるのが、全く興味が無い青学の法学部と同志社大の神学部だった。二つとも恐ろしく難しいレベルで全く分からなかったのを覚えている。あとは最後に千葉工業大を受けた。ここは工業大学の入試なのに数学IIIと物理IIBが対象外だった事を覚えている。

 

そして合格したのはなんとなんと日大理工と千葉工業大。あとは全滅。

 

だがこれは成功体験の内に入らない。同級生はみんな早慶レベルに入っていったからだ。この当時は学歴というか学校歴コンプレックスを抱えていた。高校受験の時に日大の付属なんて滑り止めにすら考えていなかったからだ。

 

日大へ入ることを高校時代の担任に報告しに行ったらビックリしていた。日大理工に受かったのは奇跡だった。しかし大学にもろくにいかなかった。1、2年は行ったり行かなかったり。今度は車に乗り始めて貧乏生活。また留年スレスレだ。必修の実験に替え玉をよこして、自分はハリウッドに旅行に行った事を覚えている。金が無かったからマルイのカードでキャッシングをして軍資金とした。ハリウッドで何をしていたかはここに書ける内容ではないので割愛。

 

ローダウン、フルエアロ、アルミホイール、トランクにウーハー。

 

 

<二度目の成功体験>

クソ中のクソだ。高校の時の失敗から何も学んでいなかった。いよいよまた留年が見えてきた。大学生にもなって、教授に親を呼ばれて三者面談をした。

 

「オタクの息子さんは残念ながら留年が濃厚。一年分余分に学費を用意してくれ。」

 

と、私立大学も商売なので、学生の確保をしておかないと売上げが減ってしまうのだ。しかし父親はケラケラと笑っていた。ホンダでそこそこのお偉いさんだった父親はきっと金には困っていなかったのだろう。一年留年したぐらいで人生終わらないからゆっくりやれと言ってくれた。

 

ここで何故が火がついた。バイクの免許を取る時並みの火だ。翌日から全ての講義を教卓の前で聴いた。熱心にノートを取った。実験は全て積極的に参加した。これを一年以上続けた。3年生の後半は就活が始まるのだが、私も就活を一応始めたが、周りの同級生は私を馬鹿にした。みんな私が留年すると思っていたからだ。

 

だが私は3年時に前人未到の70単位という驚異的な単位を取り、留年を免れた。三者面談をした教授も驚いていた。4年生になりいよいよ就活が本格化した。私はホンダ一社だけ受けると決めていた。だが本命は大学院だった。何故ならホンダに入るには大学院を出た方が有利だからだ。

 

ホンダに入る為の大学院という位置付けだったので、別に大学院に行かないでホンダに入れるのであればそれに越したことは無い。2年後、どうせまた同じ就活をするので真面目にやることにした。そしてこの時も不思議と火がついた。所属していた研究室がホンダと共同で研究をしていた関係で勝手にOBが訪問してきては、偉そうに武勇伝を語る光景が日常茶飯事だった。そういう人達を一所懸命ヨイショし、要は何をすればホンダに入れるのかを単刀直入に聞いた。

 

免許の一発試験と同じ状況だ。だが今回はマジで一発だ。いや、一応2発目は2年後にある。だがその二発目以降は中途採用となる。新卒で入ることに拘りがあった。今回の就活で何とか内定を取ってやると本気で考え始めた。

 

日大理工機械工学科の学生、およそ200人少々のほとんどがホンダやトヨタを受ける。しかし実際に内定が出るのは毎年一人か二人だ。教授の推薦であることも多い。私は当然推薦されるような人間ではないので自由応募で戦う他無かった。周りの同級生とはもはやコンタクトを取っていなかった。参考にならないからだ。成功体験を聞かないと意味がない。ホンダに入れた人の話にしか興味が無かった。

 

エントリーシートはA3の表裏がスカスカのものだった。一瞬でこれはギッシリ埋めないと勝てないゲームだと悟った。枠からはみ出すぐらいに思いの丈をぶちまけた。本もたくさん読んだ。ホンダの歴史やら何やら可能な限り勉強した。本の内容をまとめ、考察と共に勝手にレポートを書いてエントリーシートと同封した。ここは気合と根性を見せるゲームだと分かっていた。何かしら特別な事をしないと書類すら通過しないだろうと。

 

書類は無事に通過した。面接1回目、いわゆるグループ面接だった。自己紹介と志望動機を順番に聞かれたが、私は10人ほどいた内の最後で、

 

「ホンダの今のラインナップはダメ。何一つ欲しくなるモデルが無い。俺が何とかする。」

 

と言い放ち、他の学生がビックリしていたのを覚えている。私以外の人達はクソつまんない志望動機をブツブツと喋っていた。ホンダという単語をトヨタでも日産でもヤマハにでも置き換えられる内容だった。

 

チンピラ時代のハッタリがここで役に立ったようだで、一次面接を無事に通過。二次面接が既に最終面接となった。一次で大半を切ったということだ。作戦は一次面接と同じで、正直に今のホンダのバイクがどうしようもないと訴えた。すると面接官はみんな深く頷いていた。英語なら任せろとか、どれだけホンダに情熱があるかとか、とにかく思いの丈をぶちまけた。高校も大学も成績は壊滅的だがホンダへの情熱は誰にも負けていないと散々語った。面接官が3人いたが、彼らも成績は最悪だったと談笑していた。コレはイケるかもしれない・・・。

 

数日後、大学のトイレで大きい方をしていた22歳の私に、非通知で電話がかかってきた。こんな時に誰だよ、と思い、普段なら出ない非通知だが何となく通話ボタンを押した。

 

 

「ホンダの人事部ですが〜」

 

 

あー、どうせ落ちたって連絡だろうな。わざわざ連絡くれるんだ。

 

 

「他に内定が出ていませんか?」

 

 

と聞かれたので

 

 

「ホンダ以外受けてないです。落ちたら大学院行きます。」

 

 

と伝えた。

 

 

「それでは是非ホンダで働いてみませんか?」

 

 

優しい女性の声だった。人生二度目の死ぬほど嬉しい瞬間がやってきた。

 

内定だ。ホンダの内定だ。ホンダの研究開発職の内定だ。しかもトイレで。ケツぐらい拭いておきたかった。

 

か、かっこいい。カッコ良すぎる。本田技術研究所に入れるなんて。人生が変わった。一部上場、かつ夢にまで見た会社だ。慌ててトイレを出て、そこら中の同級生に叫ぶようにして知らせて回った。彼らは目を丸くしていた。中には冗談だと捉える人もいた。他にホンダの内定を取ったのは学年で成績がトップクラスの教授推薦を取ったヤツだった。何かダサいバイクに乗ってるヤツだった。コイツにホンダの未来は任せられんと思った。

 

これが私の人生二度目の成功体験。

一度目の一発試験を4回目で合格した時よりかは劣るが死ぬほど嬉しかった。

 

これら二度の成功体験をしたことで、私は無敵となった。もはや不可能な事は無いとすら思えるようになった。ホンダには早慶や東大からも沢山入ってくるが、全くビビっていなかった。完全に天狗になっていた。

その後、ホンダでの毎日は千本ノックのような毎日でなかなか辛かった。だがあのような毎日で鍛えられたからこそ、今こうして海外で働けているのである。ホンダでの9年間には非常に感謝している。パワハラが酷かった何人かは一生恨むだろうが、それ以外の人達はみんな素晴らしかった。

 

こうして後に転職やスウェーデン移住へとつながっていくのだが、これらの大きな決断をする際には免許を取った時のこと、内定が取れた時の事を思い出して、作戦を立てて行動に移すことを繰り返してきた。

 

若い頃にこうした分かりやすい成功体験が2回も経験でき、私の人格形成に大きく影響をした。周りの全員に無理だと言われたことを2度も覆したのは大きな自信となった。

 

やはり、鍵となったのは父親が約束通りバイクを買ってくれたところだろう。男同士の約束を守ってくれた。あのバイクが無かったら今の自分は無かったと思う。

 

高校の頃から留年すれすれ、フリーター、大学も留年スレスレと波瀾万丈だったが、今はスウェーデンで楽しく働けている。しかもプロジェクトマネージャーとしてだ。スウェーデン生まれ育ちの人にとってもこの仕事に就くのは難しいし、この職務を全うするのは大変な事だ。

 

今までの成功体験が自信につながり、自分の実力を存分に発揮できているからこそ楽しく働けているのである。ラッキーだなと思う反面、決して偶然ではなかったとも思う。自分の欲に対して正直に真っ直ぐに生きてきたのだなとも思う。日焼けして金髪でチャラいと言われ、ホンダで働いていた時も茶髪でヘラヘラしていたのでチャラいと言われていたが、誰よりも真面目に生きてきた。

 

自分と家族の人生の事をクソ真面目に考えて考え抜いた。その結果こうなった。スウェーデンに住みもうすぐ7年。スウェーデン国籍まで取得した。つまり自動的に日本人は引退したことになる。そう、これを書いているのは日本語が超上手なスウェーデン人なのだ。

 

とにかく、形では無く中身が大切。日本は異常なまでに形にこだわる。偏差値や世間体がその代表格だ。偏差値なんかよりも大切なのは決断力や行動力だ。成功体験に基づいた自己肯定感が伴う決断は、未来をより明るい方向へと導く。私にはリスクを伴う決断をする勇気と行動力があり、その後も成功に持っていく持続力と忍耐力がある。

 

この資本主義社会をベースとした訳のわからない世の中で幸せを手にするにはこうした能力が必要だ。スウェーデンではこれらの能力を身につけられる可能性が日本より遥かに高い。よって子供達も自己肯定感が高い大人となっていくと信じている。少なくとも幸せとリンクするとは思えない偏差値という実態のないもの為に無駄な詰め込みはしない。

 

伸び伸びと育つ環境であらゆる壁にぶつかり、都度乗り越える事を覚えてくれればそれでいい。私はすぐそばで見ているだけでいい。

 

我人生に後悔無し。

 

家族。スウェーデンでまともな家。薪ストーブ。心を許せる親友の存在。毎晩晩酌ができる妻。欲しいものは全て手に入れた。ここからは惰性で生きていく。これ以上偉くなったら自分の時間が削られてしまう。今のポジションのままでいい。

 

とんでもない文字数を書いてしまった。13000文字に迫る。メディアに寄稿する原稿は多くても4000文字なのでその3倍。

 

読者の事は考えないと冒頭に書きましたが、ここまで読んで下さった方には感謝したいです。何かの足しになれば幸いです。